2018年06月07日

刀を大上段に構えたとき、剣先は柄の高さより下げてはならない。


刀の振り方は、剣道のような振り方は正しくないということは前に説明したとおりである。

では、居合をはじめ、多くの人たちがやっているような、大上段に構えた刀を半円形の軌跡を描いて振り下ろすのがよいのだろうか。

これも根本は剣道と変わらない。

つまり、迅速な打ち込みができず僅かに遅れが生じる。

とくに、刀を頭上に振りかぶり、スピードを得るため剣先を刀身が水平近くになるまで下げ、拳と剣先が同じ高さになるように構えた場合。そして、振りかぶった剣先が水平から下に下がるほどその傾向は強くなる。

この剣先を刀身が水平より下に下げることは、多くの古流では厳に戒められていることである。

刀身はその重力により下方に引っ張られるが、これは切る為に円弧を描く方向、つまり上方への力と反対のベクトルであるので、これに逆らって半円を描いて振るには大きな力がいる。

また、一旦、止めた状態から動き出すには大きな力が必要である。

このことは、先の剣道の項で説明したとおり。

この二つの剣先にかかる制動力は、振りはじめには極めて大きな力が必要で、これを腕の力だけで振れば、当然多少のタイムラグが生じる。

これが竹刀や木刀ならば先端が軽いため気にならない程度で済むが、真剣の場合には違ってくる。

先端が重いため、どうしても打ち下ろす瞬間に多少の遅れが生じる。

居合や巻き藁を斬る場合は、その斬る対象が動かないし反撃される恐れがないから初動の僅かな遅れは全く問題にならない。

しかし、実際の真剣の斬り合いの場合はそのわずかな遅れが致命的な結果を招く。

自分の剣が相手の体に届く前に敵の刀は自分の体に届く。

つまり、敵に斬り倒されるということになるのだ。

だから真剣を持っての立ち合いの場合は、刀を振りかぶった場合、決して剣先を柄の位置より下げてはいけないと言われているのである。


posted by 観月齋 at 10:53| 剣術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月13日

剣道は真剣勝負には不利であるというもう一つの理由


現在、ほとんどの人が正しいと信じて疑わぬこと。

それは、剣道で行われているような打ち方がそのまま真剣でも正しい斬り方であるというもの。

しかし、これが正しくないことは、私が今まで述べてきたとおりである。

つまり、刀が刃物であるという事実を忘却しているのだ。

まず。刃筋を正しく立てなければならない。

そして、真剣は先端が重いので小手先の技は通用しない。

また、振り下ろした場合、空気抵抗が少ないので自分が考えて以上に深く切り込むことになる。

さらに言えば、振り下ろすとき、その斬り始めには大きな力がかかり、また所定の斬撃速度に達するにまでに時間がかかる。

これは、力学の法則から容易に理解して頂けるものと思う。

つまり、刀を大上段に振りかぶり、敵に向かって振り下ろす場合、いったん静止している刀はそれに動きを加える場合には極めて大きな力がいる。

そして、その場合は、その重量が重ければ重いほど、又、先端部が重いほど大きな力が必要となるのである。

竹刀や木刀は、その重量は軽いし、また、先端が軽い。

従って、剣道の場合は、竹刀の先端は軽いのでさほど問題とはならないし、その斬撃時の刀の初速もあまり遅れることはない。

ところが真剣の場合は、こうはいかない。

真剣の重心は竹刀や木刀と違い、その重心は先端に寄っている。

これを振り下ろす場合は極めて大きな力が必要となるし、どうしても初動は僅かに遅れることとなる。

真剣をとっての斬り合いの場合、このわずかな遅れが致命的な命取りとなる場合があるのである。

このように、剣道、或は幕末の撃剣の場合、実際に真剣をとって斬り合った場合、以前にも言ったように間合いが遠いこととも相まって、極めて不利な状況に追い込まれたと思われる。

posted by 観月齋 at 18:13| 日本刀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

斬り合いの実際


私達は、時代劇の映画やドラマやアニメや漫画などで主人公がバッタバッタと敵を切り倒すシーンをよく目にする。

しかし、時代劇の映画やドラマ、アニメなどの描写は全て大でたらめである事は改めて説明するまでもない。

今まで散々言ってきたことだから。

また、今現在、小説や映画に登場する実在の剣豪や名剣士などの使う剣法は実際に彼らの使った刀法とは全く関係がない。

全て、作家や殺陣師の頭から絞り出された作りごとである。

その後世の戯作者や芝居の殺陣師が、かっこよさだけを追求して考え出された見栄えだけの絵空事の試合や決闘、斬り合いを真実と思いこむほど愚かなことはない。

そんなことはわかっている。

当たり前ではないか。

そう言われる諸兄がほとんどであろう。

しかし、実際の真剣での斬り合いとは一体どの様なものであったのか。

そう問われてまともに答えられる人は一人としていないはずだ。

実際の斬り合いなぞ、誰一人見たこともなく、ましてや経験したものもいないのだから。

一方的に刀で殺害した事件は多数あるが、お互いが日本刀をもって斬り合ったのはおそらく西南戦争が最後であったと思われる。

それ以来、真剣をもっての斬り合いなどここ140年余りなかったのだからこれは当然のことといえる。

しかし、誰も見ていないのだからわかりませんでは小説や映画、芝居など成り立たない。

そこで、小説家は知恵をしぼり、どんな読者にもわかるように表現に工夫をする。

さらに剣道の経験者であれば剣道をもとにしてその場面を作り上げる。

しかし、前にも言ったことであるが、竹刀を真剣に持ち替えただけでは真実とは大きくかけ離れたものとなってしまう。

はっきりしていることは、実際の斬り合いは正に命のやり取りであり、殺し合いなのである。

映画や芝居、漫画やアニメに表現されるようなきれいごとで済む筈はなく、そこに繰り広げられる光景は、まさに修羅場、地獄絵図そのものである。

斬られたものは言語に絶する苦悶に身をよじり、血の海のなかにのたうち回る。

小手を切られれば指は落ち、腕も切り離される。

腹を切られれば内臓は腹圧で飛び出し、頭の鉢を割られれば脳漿や血が飛び散る。

この光景は、常人にはとても正視に耐えるものではない。

そして、命絶えれば、体中の筋肉は緩み、体内の汚物は外に流れ出し、異臭悪臭に包まれる。

多くの人は、多くの悪人を剣豪がばったばった切り倒すチャンバラシーンをかっこいいと思い楽しんでいるが、実際はそんなきれいごとで済むはずがない。

もし、それが現実であるならば、そこは正に阿鼻叫喚の地獄そのものであろう。

そもそも、いくら剣豪と言えど、真剣を構えて待っている敵を映画や芝居のようにたやすく斬り倒せるはずがない。

例え相手が自分より技量的に劣っていたとしても、必ず勝てるとは限らない。

敵を切り倒したとしても、自分が身に少しでも敵の刃を受ければ無事では済まないからだ。

へたをすれば大けがはおろか命さえ失いかねない。

この傾向は、撃剣が盛んになった江戸中期以降顕著となったと思われる。

それ以前の形稽古の場合、敵の反撃を予想して、それを制し、或は避けながら敵を切るという技術が形の中に組み込まれていた。

しかし、撃剣ではこの点の配慮がなされておらず、先に相手を打ち込めば勝となっていたからである。

しかし、実戦ではそうはいかない。

たとえ、相手に先に斬られても、こちらに少しでも反撃する力が残っていれば敵に一太刀報いることもできた。

また、刃筋が少しでも狂えば相打ちとなることもあったし、はずみで敵に致命傷を負わせることも十分あり得る。

いくら道場で撃剣の試合に強く、名人と謳われていても、実戦では何が起こるかわからないのである。
相手に勝ったとしても自身が無傷で済むという保証はなにもなかった。

幕末期の江戸四大道場の一つと言われた心形刀流の後継者の伊庭八郎治は、幕府の遊撃隊を率いて箱根に戦い腕を失った。

彼は、美男と豪勇で「伊庭の小天狗」と謳われたほど有名であったが、箱根で腕を切り落とされたのち明治二年に函館戦争で戦死した。

伊庭八郎治は、箱根で小田原藩との戦闘中、鏡心一刀流の高橋籐五郎に手首を切り落とされたのである。

剣名を謳われ、伊庭の小天狗と言われるほどの剣の巧者でも、このような田舎流派の無名の剣士に腕を斬られるという不覚を取るのである。

これをみても、映画や小説のように、身に一太刀も受けることなく、一方的に人を切ることが如何に困難なことかということが理解できよう。

だから、新選組や赤穂浪士は敵陣に斬り込むときに、鎖帷子や鉢がね、籠手や脛当てで完全に防御したうえで襲撃に及んだのである。

ラベル:真剣 斬り合い
posted by 観月齋 at 15:05| Comment(0) | 日本刀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする