2017年02月11日

宮本武蔵と剣道


今まで述べてきたことから、戦国から江戸初期にかけての剣術(兵法)と現代の剣道は全く別物であるということがご理解いただけたものと思う。

しかし、この事実をほとんどの日本人が知らない。
おそらく、剣道を学んでる人の大部分の人さえ、古流剣術と今の剣道とは同じものだと信じて疑わない。
そして、たとえ違っていてもその差は僅かなもので、その本質はなんら変わるものではないと思いこんでいる。

しかし、実際はそうではなかったことはこれまでの私の拙文をお読みになればお解り頂けるのではなかろうか。

例えば宮本武蔵は現在、最も良く知られた剣豪である。
しかし、これほど信用に足る資料が少ない人物はいない。
現代人のイメージする武蔵とは、吉川英治が作り上げたもので、その殆どが創作である。

この吉川の作った武蔵に憧れて剣道を習った人も決して少なくないはずだ。
しかし、武蔵は今の剣道を使っていたのではない。

武蔵の創始した二刀流は「二天一流」として、現在も熊本に残されているし、各地に支部道場もある。

この「二天一流」は、現代の剣道のもとになった「撃剣」とは何の関係もない。

「撃剣」を始めたのは中西派一刀流や直心影流などで、以後、江戸を中心に北辰一刀流や鏡心明智流、神道無念流などがこれを継承し、今の剣道へと発展していった。

ということは、所謂「撃剣」をやっていた上記、北辰一刀流や神道無念流、鏡心明智流、直心影流なら、剣道の元祖と言うことができるが、それ以外の古い流派とは何の関係◡もないのである。

特に、「二天一流」は二刀流であり、その由来、伝統、内容のどれをとっても現代の剣道とはつながらない。

これは、他の、形稽古中心の古流の剣術流派にも言えることであるがいずれも現代剣道とは関係がない。

但し、明治以降、剣道の修行者が古流を学んで継承した例もあるが、これをもって、古流剣術が現代剣道の祖であるということにはならないのである。

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2017年02月04日

昔の剣術(古流剣術)と現代剣道の違い


今まで、散々、江戸前期までの剣術と現代の剣道とは全く別物であると言ってきた。

江戸中期以前の各剣術流派は、同じ剣術でもそのコンセプトも体の捌き、歩き方、剣の振り方、その形は全て違っていた。

例えば、宮本武蔵の二天一流と一刀流、新陰流、念流、香取神道流など、どれをとっても同じものは無い。

これらを総称して古流と呼ぼぶ。
今では古武道と呼ばれているが、ただ、現在の古武道はもっと範囲が広く、北辰一刀流などの幕末期に勃興した新しい流派も含まれている。
しかし、ここは、江戸中期以前の形稽古中心のものを便宜的に古流と呼び、江戸中期以降の防具を着けて打ち合う掛かり稽古や地稽古主体のものを撃剣と言って区別しよう。
但し、最近よく使われている古武術。あのK氏の古武術は違う。
あれは古武道ではなく、彼の創作武術とでもいうべきものである。
これは過去、説明したとおり。

江戸中期ごろ、この剣術界に大革命が起きたことは今まで述べてきたとおりである。
現代の剣道のような防具が工夫されたため、竹刀による掛かり稽古や地稽古が始まり、その延長として幕末には流派の垣根を超えて他流試合も盛んにおこなわれるようになった。
これを当時は撃剣と言った。

その結果、技術の習得より試合に勝つことが求められ、試合に有利であることから、竹刀の長さも長くなったのである。
真剣より最低でも五寸(15cm)以上、おそらく、現代の剣道で使われている三尺九寸(118cm)以上はあったと思われる。

竹刀の長さが長くなれば当然間合いが遠くなってくる。
間合いが遠くなれば、昔の古流のように一歩踏み込んで打つということができない。
竹刀が相手に届かないからである。
そこで、現代の剣道のように思い切り相手の手元に飛び込まなければ勝つことができなくなってしまった。

もともと古流の剣術では、飛び込んで打つということはあまりりやらない。
前後左右に一歩ずつ確実に歩むのである。

古流の場合、竹刀や木刀の長さは真剣と同じものを使う。大体全長が尺三尺三寸(100cm)以下である。
この場合、相手が一歩踏み込んで打ってくればこちらは前後左右に動いて敵の太刀筋を躱し、そのまま打てばちょうど物打ち所が相手に届く。

また、間合いが近いため、相手に体当たりしたり足を払ったりするため、足は平行ではない。
前の足は相手に向き、後ろの足はそれと直角となる。
これにより、前後左右、融通無碍な足さばきができる。これを撞木足という。

ところが撃剣は、間合いが遠いため、一歩踏み込んだぐらいでは竹刀が相手に届かない。こうなれば、まっすぐに飛び込んで打つしか方法はなくなってくる。
遠い間合いを一気に飛び込むのであるから、足は平行でなければならない。
飛び込むことにより、足には踏み込むこととは比較にならぬほどの力がかかる。
これを撞木足でやると極めてやりずらいし、下手をすれば足を痛めてしまいかねない。
自然、足は平行になり、かかとは上がった状態で飛び込むことになる。

古流では前後左右に動くことができたが、撃剣ではその余裕はない。
ただ、一直線に飛び込むだけである。
ここで必要なのは、運動神経と体力である。
これさえ人並み優れていれば、何年も修行した兄弟子にも打ち勝つことができるのということなのだ。

さらに大きな違いがある。
古流の形稽古の形は自分から切りかかるということはしない。
あくまで敵が斬りかかってくるところを制して勝のである。
敵を誘って先に切りかからせることはあっても、何も無い状態で自分から先に切りかかることはない。
なぜならば、自分から先に切ってかかるという技術、形が存在しないからである。

昔からよく言われていた話。
決闘の場面で、お互いが対峙しあってどちらからも先に手を出さず、長い時間が経過したなどという描写があるが、これは、自分から切りかかって勝つという形が無く、先に相手に手を出させて勝とうとしたためである。

もちろん、真剣を向け合っているのであるから恐怖心もあったろう。
しかし、本当の理由は、古流には自分から先に手を出して勝つという技法がなく、先に手を出した方が必ず負けるということがお互いがわかっていたからに他ならない。
誘いでちょっと手を出してみて、敵がそれに乗ってこなければどちらかがしびれを切らせて切りかかってくるのを待つほかはなかったのである。

最後に、古流と撃剣の外見上の違いを比べてみよう。

古流は、一般的には素面素小手、つまり全く防具は着けない。道具は袋竹刀か木刀のみ。長さは真剣と同じである。
動きは前後左右、融通無碍な動きとなる。
足は撞木。
稽古は教授者が打太刀となって斬り込んで教え、修行者は仕太刀となりその形にそって打太刀の攻撃を制する。
この反復である。
この形を繰り返し稽古して、自分の潜在意識に叩き込み、無意識にでも習い覚えた技法が正しく使えるようになるまで稽古を積まなければならない。
これには当然時間がかかる。およそ十年は必要であろう。

これに対し、撃剣は全く違うものとなっている。
防具は現在の剣道とほぼ同じ。
面、胴、籠手を着け、竹刀は分厚い竹を四つ割りにしたもの、長さは大人の標準、三尺九寸(118cm)、真剣よりおよそ20cmほど長い。
稽古方法は主に掛かり稽古や地稽古、つまり、お互いに防具を付けて叩き合う。
各流派に伝わる形も稽古したが、これは心得程度であくまでも稽古の中心は防具を着けての竹刀の叩き合いであった。
また、試合稽古なので、お互いが相手の切込みを待っていたのでは稽古にならない。
そこで、積極的に打って出たので激しい打ち合いを繰り広げた。
また、間合いが遠いために、一直線に飛び込んで打つのだが、足は平行である。

如何。外見も、体の動かし方も、間合いもこの二つ、古流と撃剣はここまで違ってしまっている。
そして、現在の剣道の大よそは、この撃剣由来のものといってよい。
古流の剣術と撃剣、つまり現代の剣道はこれほど違っているのである。

故に、剣道の元祖は撃剣であり、形も内容も全く異なる古流剣術とは全く違うものとなっていることをご理解いただけただろうか。

タグ:剣術 古流 撃剣
posted by 観月齋 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月01日

剣術の間合いと撃剣の間合い

剣術の間合いについて、現代の剣道と昔の剣術では大きく違っている。
それは、使う木刀や竹刀の長さによって違う。
時代や流派によっても異なるが、江戸中期までは、真剣の長さとほぼ変わらない長さの三尺二寸(97cm)から三尺三寸(100cm)ほどであった。
新陰流系統の袋竹刀や木刀、そして、江戸中期に工夫された竹を四つ割にした現代の剣道の竹刀の原型の竹刀もほぼ、この寸法であったようだ。

これは、江戸中期までは、稽古が形稽古であった為、真剣の斬り合いを想定していたためである。
竹刀も木刀もあくまで真剣の代用として稽古に使ったものなので、これ以上長くては実戦において間合いがとれず、極めて不利な状況に追い込まれたからである。
つまり、間合いが遠ければ、自分の刀が敵に届かず、折角研鑽を積んだ稽古が役に立たないばかりでなく、実戦の場において命を失いかねない。

形稽古においては、この間合いを様々な形により修練して会得する。
だから、江戸中期までの形稽古を行っていた時代の実戦では、振り下ろす一刀に無駄がなく、切合いでの死傷者が多かった。

例えば元禄のころ、赤穂浪士による吉良邸への討ち入りでは、吉良方に多くの死傷者が出たのは、赤穂方が用意周到な計画と装備で敵の寝込みを襲ったということもあるが、彼らの振るう一太刀一太刀が正確に無駄なく相手の体に届いていたということなのである。

これに比べ、幕末の動乱の幕開けとなった、桜田門外の変では、ずいぶんと様相が違っている。
見物していた者の談によれば、切り合うお互いの間合いが遠く、お互いの刀が届かぬ距離から刀をやみくもに振り回していたという。

この差は一体何であろうか。
もちろん、竹刀を使っての稽古と異なり、実戦でお互い刀を突きつけられると、恐怖のあまり身はこわ張り、気は萎えて思い切り踏み込みにくいのは当然である。
しかし、これは、江戸中期以前も幕末も同じであるはずだ。

この原因は、間合いである。
つまり稽古のやり方が違っている。
江戸後期の剣術の稽古では、間合いが遠くなっているため、その距離ではいくら刀を振っても敵の体に届かない。
お互いがそうであるから、折角の稽古が役にたたず、あとは刀をやみくもに振り回す極めて無様な斬り合いとなる。

では、江戸中期以前と幕末期では稽古の方法がどう違っていたのか。
実は別物なのである。

江戸中期までは形稽古中心の剣術、或は兵法。
幕末の剣術の主流は撃剣である。
この撃剣は現代の剣道とほとんど変わらないもので、今の剣道の防具や竹刀は江戸中期に工夫されて発展して現在に至っている。

前にも書いたが、形稽古中の江戸中期以前の剣術と、防具が発明され、竹刀で打ち合う稽古法が発明されたそれ以降では、その本質はがらりと変わってしまい、完全なスポーツと化してしまった。

防具が発明されたことで、寸止めではなく、思い切り打ち込むことができるようになったことで、竹刀が改良された。

それ以前の袋竹刀では、竹具足や鉄面を思い切り打てば、数合のうちに中の竹がササラのように割れてしまい、使い物にならなくなる。
そこで工夫されたのが、現代の剣道のような、頑丈な分厚い竹を4枚合わせた竹刀である。

防具が発明され、竹刀も改良されると、自然と現代の剣道のような竹刀で打ち合う稽古法を採用する様になり、盛んに他流試合も行われた。

特に天保年間(1830〜1844)柳川藩士の大石進が五尺三寸(およそ160cm)の長竹刀を使って江戸じゅうの剣術道場を席巻した。
それ以降、竹刀の長さが長大化し、四尺(およそ120cm)から六尺(180cm)のものが流行したため、安政三年(1856)講武所の男谷精一郎が三尺八寸(およそ115cm)以内と定めたが、それがどの程度普及したかは定かではない。

ただ、そうはいっても、試合が増えてくるに従い、試合に有利なため竹刀の長さが徐々に長くなってはいたようである。

ただ、大石進の出現で、一気にその傾向が顕著になったと思われる。

桜田門外の変が起きたのは、万延元年(1860)である。

襲撃側は水戸浪士17名薩摩藩士1名の計18名。この人数で総勢60人ばかりの井伊直弼の行列に襲い掛かった。
もっとも、このうち、駕籠かきや道具持ちの人足が相当数いたので、警護の武士の数は徒歩の士分26名であった。
その警護の武士26人中、即死4名、重傷の後死亡4名都合死者8名、負傷者11名であった。

水戸藩の剣術は、防具をつけて竹刀打ち込み稽古を行う神道無念流、北辰一刀流の他に、従来から水戸藩に伝わる水戸派一刀流、新陰流、真陰流を統合して水府流剣術を藩校、弘道館で教えていた。
この水府流は、形稽古中心であった上記三流派の形も残しながら、主として竹刀打ち込み稽古をやっていたようである。

以前にも説明したことであるが、当時の竹刀打ち込み稽古中心であった、北辰一刀流や神道無念流、また、水府流も形は残されてはいたが、あくまで稽古の中心は防具を着けて打ち合う、竹刀打ち込み稽古が中心であった。

この、襲撃側の水戸浪士は、この藩校で修練した、水府流、北辰一刀流、神道無念流の何れかを遣ったものと思われる。

他方彦根藩では北辰一刀流と念流正法兵法未来記剣術が稽古されていたようである。
この念流正宝兵法未来記剣術は、おそらくその名前から察するに形稽古中心の剣術であろう。
しかし、当時は、竹刀打ち込み稽古が大流行していたので、昔ながらの形稽古中心の流派も防具をつけて竹刀打ち込み稽古を取り入れていたようだ。

こうして見てゆくと、この彦根藩、水戸浪士側双方とも、その剣術修行は専ら竹刀打ち込み稽古であったと思われる。

切り合った双方とも、真剣より遥かに長い竹刀を使った竹刀打ち込み稽古の撃剣を修行していた。
これにより、遠い間合いから刀を振り回していたという見物人の目撃談の説明がつくのである。

当時の剣術(撃剣)の稽古は、おそらく真剣より五寸(およそ15cm)以上長い竹刀を使っていたと思われる。
ということは、お互いが真剣の場合より一尺(およそ30cm)以上も遠い間合いで稽古していたことになる。
この間合いで稽古をしていれば、当然、真剣の斬り合いの場合にもこの距離で相対することになる。稽古で覚え込んだこの遠い間合いで刀を振り回すことになるが、刀の刃はお互いの体には届かない。
届くのは敵の小手や拳ぐらいであろう。
やたらと切り離された指が落ちていたのはそのなによりの証拠ではなかろうか。

幕末期の争乱で、切合いの間合いが遠かったのは、もちろん恐怖心もあったであろうが、実は彼らの稽古法が、真剣より遥かに長い竹刀で稽古していたことによる間合いの見誤りが原因であった。

posted by 観月齋 at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 剣術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする